召会の立場:【召会の立場と召会の集会 第一章】ウイットネス・リー著

エペソ4:4―6  一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです.一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ.すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。
使徒8:1 さて、サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムに在る召会に対して大迫害が起こった.そして、使徒たちのほかはみな、ユダヤとサマリアの地方に散らされた。
使徒13:1 さて、アンテオケの地に在る召会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの、預言者たちと教える者たちがいた。
啓1:11 それはこう言った、「あなたが見ていることを巻物に書いて、七つの召会に、すなわち、エペソに、スミルナに、ペルガモに、テアテラに、サルデスに、ヒラデルヒヤに、ラオデキヤに送りなさい」。
啓2:1 「エペソに在る召会の使者に書き送りなさい.『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台のただ中を歩いている者が、こう言われる.
Ⅰコリント1:2 コリントに在る神の召会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別された者たち、召された聖徒たち、それと共に、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての者へ.彼は 彼らのもの、またわたしたちのものです.
ローマ1:7 ローマにいる、神に愛され、召された聖徒たち一同へ.神であるわたしたちの御父と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

 召会生活に関して重要な事柄が多くありますが、わたしたちの実行と経験のために必要となる最初の二つの主要な項目は、召会の内容と召会の立場です。召会の内容は、単なる教えや教理のキリストではなく、実行、実際、経験におけるキリストです。召会のための命、内容、すべてとしてのキリストは、召会生活の基本的で、主要な、第一の面です。わたしたちが実行しているものは、形式やある教えにしたがったむなしいものではありません。わたしたちは、キリストを命、内容、すべてとする生活を実行しているのです。召会生活、召会生活の実行は、キリストをすべてとする生活です。

 召会生活の第二の主要な点は、召会の立場です。家を建てるためには、二つのものが最も重要となります。すなわち、材料と場所です。人は家を建てる時、それを建てるためにどの材料を用いるべきかをまず決めなければなりません。家は、セメント、石、木、レンガ、金さえも用いて建てることができます。次に、どの場所、どの敷地に建てるかを決めなければなりません。すなわち、山の上か、川のそばか、平地に建てるかです。召会の建造のために、命としてのキリストは材料、内容です。どの立場の上で、わたしたちは召会生活を持つべきでしょうか? わたしたちは、家である召会、さらには宮でさえある召会を建造しています。ですから、わたしたちはどこでそれを建てなければならないのでしょうか? わたしたちは宮をバビロン、エジプト、シリアに建てることができるでしょうか、それとも他の所に建てるべきでしょうか? 

 聖書の啓示によれば、召会の立場はとても重要です。これは特に、召会についての旧約の予表の中においてそうです。旧約では、自分の選んだ場所に宮を建てようとする人はいませんでした。ただ一つの場所、すなわち神によって選ばれ定められた場所がありました。自分の好きな場所に宮を建てたイスラエル人は、千年間、一人もいませんでした。なぜなら、すべてのユダヤ人は、宮を合法的に、また適切に建てることのできるただ一つの場所があることを認識していたからです。他の場所に宮を建てることは、それがどのような宮であったとしても、非合法的でした。それは適切でありませんでした。なぜなら、それは適切な立場の上にないからです。わたしたちはこの事についてとてもはっきりしていなければなりません。

召会の土台と召会の立場との違い

 わたしのクリスチャン生活の少なくても最初の八年間か十年間は、わたしは召会の立場が何であるかを知りませんでした。わたしはキリスト教の書物やメッセージの中にそのような用語を見たことがありませんでした。「召会の立場」という用語は、一九三七年にウオッチマン・ニー兄弟によって初めて用いられました。それ以前は、この事柄はあまりはっきりしておらず、この用語は用いられませんでした。わたしは、わたしたちすべてが「立場」という言葉についてはっきりすることを望みます。わたしたちはこの言葉を、「土台」とは異なる意味で用います。土台とは、建物の構造の基本的な部分です。しかしながら、立場は、構造の一部分ではありません。それは場所、一区画の土地、敷地であり、その上に土台が据えられます。わたしたちは建物をその土台と共に、ある敷地、区画に建てることができます。あるいは、同じ建物を同じ土台と共に、別の区画に建てることもできます。例えば、千百一番地の建物を、千百三番地に建てることもできます。「立場」という用語は区画、敷地を指しており、その上にわたしたちは建てるのです。区画とは敷地であり、この敷地の上にわたしたちは土台を据えます。それから、この土台の上にわたしたちは建物を建設します。これが、召会の立場でわたしたちが意味する事です。

 例えば、ロサンゼルスという大都市には、カトリック教会と呼ばれる大きな団体があります。カトリック教会は、土台としてのキリストの上に建造されることを主張します。もう一つ、長老教会と呼ばれる団体があり、それも同じ主張をします。すなわち、土台としてのキリストの上に建造されることを主張します。同様に、バプテスト教会、メソジスト教会、監督教会も同じ事を主張します。すなわち、キリストが自分たちの隅の石であり土台の石であることを主張します。キリストの教会やナザレン教会も同じです。いわゆるキリスト教の教会で、キリストが土台であることを主張しない教会は一つとしてありません。みなキリストを自分たちの土台としますが、彼らは召会の正当な立場を無視しています。

 カトリック教会は、土台としてのキリストの上に建造されることを主張しますが、この建造は特定の立場の上に、すなわちローマ・カトリック主義という立場の上にあります。長老教会も、土台としてのキリストの上に建造されることを主張しますが、この建造は長老派という立場の上にあります。同様に、南部バプテスト教会も、土台としてのキリストの上に建造されることを主張しますが、それはバプテスマという立場の上に建てられています。ちょうど、ルーテル教会がルターという立場の上に建てられているようにです。みな、同じ土台、すなわちキリストを持ついわゆる教会です。しかしながら、すべて異なる立場の上に建てられています。問題を生み出すのは、立場です。もしローマ・カトリック教会がローマ・カトリック主義という立場を進んで放棄し、長老教会が長老派という立場を放棄し、南部バプテスト教会がバプテスマという立場を放棄するのであれば、最終的には、自動的に、彼らはみな一となるでしょう。そうすれば、分裂はないでしょう。もしわたしたちが宗派の異なる名称と異なる立場をすべて取り除くのであれば、残るものはただ、キリストとすべての聖徒たちと共にあるロサンゼルスに在る召会であり、分裂や宗派はないでしょう。わたしたちの間には分離する線はないでしょう。一種類の聖徒たちが一つキリストと共にあり、ロサンゼルスにおける唯一無二の召会を形成し、共に組み合わされて、土台としてのキリストの上に、また地方の立場の上に建造されて、ロサンゼルスに在る地方召会となるでしょう。

すべての奉仕者は正当な立場の上に召会を建造する

 わたしたちはコリントという都市を例証に用いてもよいでしょう。パウロはコリントに行って、福音を宣べ伝え、主の働きを行ないました。しかしパウロは、キリストを土台とするパウロ召会を設立したのではありません。アポロもそこに行きましたが、キリストを土台としアポロを立場とする召会を設立したのではありません。同様にペテロも、キリストを土台としペテロを立場とする召会を設立して、ペテロ召会を設立したわけではありません。コリントには、パウロ召会もありませんでしたし、ペテロ召会もありませんでしたし、アポロ召会もありませんでした。パウロはコリントに行って、福音を宣べ伝え、多くの人を主にもたらし、キリストを土台とする召会を、コリントという地方の立場の上に設立しました。パウロはそこに地方召会を設立しました。アポロはコリントに行った時、別の召会を設立しませんでした。彼はただ、多くの人を主にもたらし、彼らを同じ立場の上に建造しました。ペテロも別の人々を主にもたらしましたが、やはり別の召会を設立することはしませんでした。ペテロはそれらの人々を同じ立場の上に建造しました。

 ですから、コリントにはただ一つの召会があり、唯一の土台であるキリストをもって建てられており、唯一の立場であるコリントという都市に位置していました。このようにして、コリントに在る召会がありました。コリント人への第一の手紙第一章一節と二節前半は言います、「神のみこころを通して召されたキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟ソステネから、コリントに在る神の召会へ」。パウロは、「コリントに在る神の諸召会へ」とは言わずに、単数形である一つの召会、すなわち「コリントに在る神の召会へ」と言いました。パウロはコリントへ行き、アポロもそこへ行き、ペテロもそこへ行きました。これらの異なる奉仕者たちは、自分たちの務めを持って、コリントへ行きました。しかし、彼らすべては一つの召会を、土台としてのキリストをもって、唯一無二の立場、すなわち一の立場、地方の立場の上に建造しました。

 ですから、最終的には、ただ一つの召会、すなわちコリントに在る召会がありました。一つ以上の召会、すなわちパウロ召会、ペテロ召会、アポロ召会はありませんでした。分裂的な意味における、いわゆるキリストの教会さえありませんでした(十二節)。ただ一つの召会があり、一種類の聖徒たちをもって、キリストという一つの土台の上に、またただ一つの立場の上に、すなわちその召会のある地方の一の立場の上に建造されました。一つの召会、一つの土台、一つの立場がありました。これはとてもはっきりしています。

 ある人は次のように言うかもしれません、「確かに、ロサンゼルスにはカトリック教会、長老教会、バプテスト教会、その他の教会があり、みな異なる立場の上に立っています。それだけでなく、ここには多くのフリーグループもあり、何の立場も持っていません」。しかしながら、もし人が立場を持たずに集まるとしたら、彼はどこに立つことができるでしょうか? 小さな人でさえ、立つためには少なくても三十センチメートル四方の地面が必要です。空中に浮かんでいることのできる人がいないのと同じように、立場のないフリーグループもあり得ません。あるフリーグループは、書き記され、公表され、あるいは定められた立場を持っていませんが、理解することのできるある種の立場を持っています。あらゆる種類のフリーグループには立場があります。彼らに立場がないと言うことは、詐欺であり、欺きです。

 この事からわたしたちは、土台と立場の違いを見ることができます。今日、問題は土台にあるのではなく、立場にあるのです。こういうわけでわたしたちは、召会生活を実行するためには、召会の第二の主要な項目である立場を考慮しなければならないと言うのです。主の恵みによってわたしたちは、努めて他のあらゆる種類の立場を放棄し、一の唯一の立場、すなわち地方の立場を取ります。これが召会の唯一の立場です。

召会の一の支配的な原則

 召会の立場は、旧約の予表と新約の啓示の両方に見ることができます。例えば、コリントに在る召会があり、啓示録第二章と第三章の七つの召会があります。召会の一は、物質的な宇宙の証しにおいても見ることができますし、新エルサレムにおいても見ることができます。これらすべての予表と例証は、召会が唯一無二の立場の上に建造されることを示しています。

 召会はキリストのからだです。支配的な原則と決まりは、一つのかしらは常に一つの体を持つということです。一つのかしらが一つ以上の体を持つことはあり得ません。召会はキリストのからだであり、キリストは一つのかしらですから、召会は一でなければならず、また召会は一です。こういうわけで、エペソ人への手紙第四章四節から六節は、一つからだ、一つ霊、一つ望み、一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、一つ神また父について語っています。召会に関して、すべての事は一です。なぜなら、召会が一であるからです。

物質的な宇宙における一の証し

 全宇宙には、ただ一つの召会があります。わたしたちは召会を月にたとえてもよいでしょう。全宇宙において、地上にはただ一つの月があります。すると、ある人は、なぜ新約は多くの召会について語っているのかと問うかもしれません。それは、これら多くの召会は、多くの都市、多くの地方における諸召会であるからです。宇宙において、召会は一です。しかし、その召会の表現は、この地上にあり、人の社会の間にあります。一つの都市には、その召会の一つの表現があり、それは地方召会、すなわち、ある都市に在る召会と呼ばれます。それから、別の都市には、その召会の別の表現があり、それはその都市に在る召会と呼ばれます。宇宙における召会は一ですが、この地上における召会の表現は多くあり、多くの都市にあります。しかしながら、それぞれの都市における召会の表現は唯一のものでなければならないという原則が、やはりあります。

新約における召会の立場の例

 こういうわけで、エルサレムという都市には一つの召会、すなわちエルサレムに在る召会があったのです。使徒行伝第八章一節は言います、「その日、エルサレムに在る召会に対して大迫害が起こった」。エルサレムには、ただ一つの召会、唯一の召会がありました。もともとは、エルサレムには百二十人の信者がいました。それから、ある日、三千人が加えられ、別の日には五千人が加えられました。わたしたちは、最終的にさらに数千人が加えられたことを信じなければなりません。その一つの都市には、二万人から三万人の信者がいたことでしょう(五・十四、二一・二〇)。第二章四六節と第五章四二節によれば、それら多くの人たちはただ一つの場所で集会していたのではなく、家から家で集会していました。多くの集会がありましたが、一つの集会そのものが一つの召会となったのではありませんでした。そうではなく、すべての集会は一つの召会でした。

 この事の後、主の証しと福音は、エルサレムからサマリヤへ、サマリヤからアンテオケへと広がりました。結果として、アンテオケにはどれほど多くの召会があったのでしょうか? 使徒行伝第十三章一節は次のように始まっています、「さて、アンテオケの地に在る召会には、……預言者たちと教える者たちがいた」。この節は、アンテオケにある一つの召会について語っています。アンテオケには、パウロやバルナバやその他の人たちのように、賜物のある人、預言者、教える者が多くいました。しかしながら、これらの賜物のある人たちは多くの召会を形成したりしませんでした。彼らはみな、アンテオケに在る同じ一つの唯一の召会の肢体でした。ですから、アンテオケには、一つの召会がありました。  主の動きはパレスチナから、エペソを含む小アジアへと進みました。エペソには幾つの召会があったのでしょうか? 啓示録第一章十一節と第二章一節によれば、エペソのすべての信者は一つの召会でした。この事は、エペソにおいてそうであっただけでなく、小アジアの七つの都市すべてにおいてもそうでした。それらの都市の一つ一つには、ただ一つの召会がありました。エペソに一つあり、スミルナに一つあり、ペルガモに一つあり、テアテラに一つあり、サルデスに一つあり、ヒラデルヒヤに一つあり、ラオデキヤに一つありました。この規定には一つの例外もありませんでした。

 そこから主の動きは、コリントを含むヨーロッパへと行きました。コリントには幾つの召会があったのでしょうか? コリント人への第一の手紙第一章二節によれば、ただ一つでした。同様に、ローマにもただ一つの召会がありました(ローマ一・七)。このことからわかるように、宇宙において召会は一つであり、各地における召会の表現もやはり一つなのです。

 わたしたちはこの事を米国の唯一性にたとえることができます。全世界には、ただ一つの米国があります。そして、至る所に米国の表現がありますが、その表現は唯一のものでなければなりません。こういうわけで、ロンドンにはただ一つの米国大使館があります。同様に、もしあなたが東京や香港に行くなら、ただ一つの米国大使館あるいは領事館を見いだすでしょう。アメリカ市民は、香港にあるどの領事館に行くべきかを問う必要はありません。もしある人がこのように問うなら、人々は彼は愚かであると言うでしょう。この地上にはただ一つの米国があります。ですから、香港にはただ一つの米国領事館があります。人はただ、領事館が香港のどこにあるかを問う必要があるだけです。もし香港に米国領事館が二つあるなら、それは米国が二つに分裂したことを意味します。もし香港に米国領事館が三つあるなら、それは米国が三つに分裂したことを意味します。エルサレムで人が救われた時、どの召会に加わるべきかを問う必要はありませんでした。なぜなら、エルサレムにはただ一つの召会があったからです。彼は救われる前、召会の外にいました。今や彼は救われた後、そこにある一つの召会の肢体となりました。夜、もしわたしが一人の兄弟に月を見るように言うなら、彼はどの月を見るべきかを問わないでしょう。なぜなら、ただ一つの月があるからです。同じように、わたしたちはどの召会に行くべきかを、すなわち、長老教会か、バプテスト教会か、ナザレン教会か、ルーテル教会か、メソジスト教会か、監督教会かを考慮する必要はありません。なぜなら、ただ一つの召会があるからです。

 実行上の理由により、ある兄弟がエルサレムからアンテオケに移るかもしれません。彼は到着する時、どの召会に行くべきかを問う必要はありません。彼はただアンテオケに在る召会にいなければならないだけです。彼が知る必要のあるただ一つの事は、召会がどこで集会をしているかということだけです。集会は、今晩はある兄弟の家であるかもしれませんし、翌日の晩は別の兄弟の家であるかもしれませんが、やはり一つの召会です。その兄弟が後ほどエペソに移ったとしても、そこでもやはり同じです。エペソでも同じように、召会の集会は、ある晩はある家で持たれるかもしれませんし、翌週は別の家で持たれるかもしれませんが、やはり一つの召会です。同様に、コリントにおいても、「パウロ」召会が「ペテロ」召会よりも良いかどうかを考える必要はありません。「わたしはエルサレムの出身です。ですから、わたしはペテロをよく知っているので、ペテロ召会に行きます」などと言う必要はありません。ペテロ召会のようなものはありません。ただ一つの召会があります。同様に、その兄弟がコリントからローマに移ったとしても同じです。ローマにはただ一つの召会があります。

新エルサレムにおける究極的な一の道

 新エルサレムには、一つの道、一つの通りがあります(啓二二・一)。一つの通りがあるだけなので、だれもわきにそれることはできません。この一つの道はわたしたちを救います。混乱もなく、わきにそれる可能性もありません。たとえわたしたちがわきへそれようとしても、最終的にそうすることはできないでしょう。なぜなら、新エルサレムにはただ一つの道があり、それから離れることは不可能だからです。

今日の分裂の道

 この絵は何と麗しく、何と心地よいことでしょう。それはちょうど、詩篇第百三三篇一節が次のように言っているのと同じです、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」。しかしながら、今日の各都市の状況は異なっています。至る所において、すなわちロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、東京、台北、香港において、人々は次のように尋ねます、「あなたはクリスチャンですか? あなたは救われていますか?主を賛美します! あなたの召会は何ですか?」。あるアメリカ人の兄弟は、「わたしは英国教会に属しています」と言うかもしれません。しかし、アメリカ市民が英国の教会にいるということは、愚かに思われます。もし彼が別の都市に移るなら、彼はその都市で英国の教会を捜すでしょう。同様に、アメリカにいる中国人の兄弟は、自分は中華独立教会に属すると言うかもしれませんし、スカンジナビア人の子孫である人は、自分はスウェーデンルーテル教会に属すると言うかもしれません。アメリカの一つの都市に、英国教会、中華教会、スウェーデン教会があるかもしれません。これは何と奇妙なことでしょう。しかし、これがまさに今の状況なのです。英国の立場の上に建てられたいわゆる教会があり、中国の立場の上に建てられた別の教会があり、スウェーデンの立場の上に建てられた別の教会があります。

 同じように、日本人は、自分は日本バプテスト教会に属すると言うかもしれません。ギリシャ出身の人は、イギリス人を好まず、彼らは政治的すぎると考えるかもしれません。また彼は中国人を好まず、彼らはお金に関心を持ちすぎると考えるかもしれません。また彼はスウェーデン人や日本人も好まないかもしれません。彼は自分の国の人であるギリシャ人だけを好むので、ギリシャの立場の上に建てられたギリシャ正教会を捜すでしょう。これが今日の状況です。わたしたちはこのような病気に対する「予防接種」を必要とします。 多くの分裂の立場の外で集まる

 もしある人が、わたしたちがどの召会に属するかを尋ねてくるなら、わたしたちは単純に「わたしは召会に属します」と言うべきです。もし彼がどのような召会であるかを尋ねてくるなら、わたしたちは「それは単に召会です」と言うことができます。各地には多くの小さな「集団」から成る集会があります。すなわち、イギリス人の集団、中国人の集団、スウェーデン人の集団、日本人の集団があり、また長老教会の集団、バプテスト教会の集団、メソジスト教会の集団、監督教会の集団、ルーテル教会の集団があります。それでは、わたしたちは自分自身をどこに置くべきでしょうか? わたしたちはその集団の外に、すなわち営所の外にいるべきであり(ヘブル十三・十三)、そして召会という一つの「集団」の中にいるべきです。兄弟たちの間の問題は、小さな集団によります。もしわたしたちが小さな集団を取り除くなら、わたしたちすべては一つの召会の中にいるでしょう。分裂はないでしょう。すべての分裂は小さな集団から生じます。これらすべての小さな集団は、多くの異なる立場となり、その上に多くの異なる種類の教会が建てられるのです。

 もしすべての立場が引き裂かれるなら、ただ一つの立場が残り、何の分裂もないでしょう。しかしながら、ある人は、これらすべての立場が引き裂かれる可能性はないと言うでしょう。わたしはこれに同意します。その可能性はありません。新約の予言によれば、宗派の立場は、主が来られるまで残るでしょう。実際に引き裂かれる可能性がないだけではありません。主ご自身でさえ、それらを除き去る意図を持っていません。主はこれらすべてのものに耐え、主が来られるまでそれらを残しておき、それからそれらすべてを主の裁きの下に置くでしょう。

 しかしながら、そのような混乱に満ちた状況の中で、わたしたちはどこに立ったらよいのでしょうか? わたしたちはさまざまな宗派に立つことができるでしょうか? いいえ、できません。わたしたちは国立教会に立つことができるでしょうか? いいえ、できません。わたしたちはただ、自分のいる地方の立場に立つべきです。わたしはロサンゼルスに住んでいる聖徒ですから、この都市の立場に立つべきであり、多くの他の人もそうすべきです。そうすれば、わたしたちは共に集まることができ、「小さな円の線を引く」ことはしないでしょう。わたしたちは別の立場の上に建てることはしません。さらにまた、わたしたちは何かを専門にすることもしませんし、とても一般的な者たちです。小さな円の外にいるこれらの兄弟姉妹が集まる時、彼らはただ、正当な立場、地方の立場、一の立場の上に立っています。

十字架の学課と神の定めによる制限の学課とを学ぶ

 何人かの新しい兄弟たちがある都市へやって来て、正当な立場に立っている兄弟たちの集会を見て、異言で語っていないことに気づくかもしれません。この事のゆえに、新しい兄弟たちは、異言で語ることのできる自分たちの家で別の集会を持つことを決定するかもしれません。家での彼らの集会は、異言を語る集会となります。そして徐々に彼らは、さらに多くの人をこの集会にもたらしますが、それでも彼らは自分たちは宗派ではないと主張するかもしれません。しかしながら、実は彼らは小さな分派です。わたしたちにはこのような事を行なう権利はありません。もしそうするなら、わたしたちは分裂、すなわち別の小さな「円」を造り出すのであって、主の定めと決まりによって制限されていないのです。  多くの兄弟たちは、すべての「円」の外において共に集まっているかもしれませんが、徐々に三、四人の人が、他の人や集会に対して不満を感じるかもしれません。彼らは、自分たちはもっと良い事をすることができると感じ、別に集会を始めます。このようにして、これらの三、四人の人は別の小さな分裂を造り出すのです。それでは、わたしたちは他の兄弟たちに対して不満があるなら、どうしたらよいのでしょうか? わたしたちがすべき唯一の事は、十字架の学課と制限の学課を学ぶことです。わたしたちはみな制限されなければなりません。

 東京にはすでに米国大使館があります。仮に、二人の人が大使館に行った時、そこの人々が礼儀正しくなかったとします。その二人の人は別の大使館を始めることができるでしょうか? 彼らは自分のアパートに戻って行って、「米国大使館」と書いてある看板を掲げることができるでしょうか? もしそうするなら、彼らは米国政府と問題を持つことになるでしょう。彼らにはそのようにする権利はありません。しかしながら、今日は何とあわれなことでしょう。クリスチャンたちはどこに行こうとも、自分たちには何でも行なう権利、自由があると感じています。今日、他の人たちに異議を唱えて、自分の家で召会を始めることが、とても簡単にできます。それは、新しい店を開くことよりも簡単です。わたしたちにはこうすることはできませんし、こうする権利もありません。この事は、申命記第十二章における一の集会の予表によって啓示されています。神によって定められた唯一の場所があり、そこにおいて主を礼拝すべきです(五―六、十一、十三―十四節)。その唯一の定められた場所によって、イスラエルの民の一は保たれました。一つの立場、一つの中心、一つの場所が一を保ったのです。

 ある人は、この考えはとても良くても、一つの都市に多くの集会があって、数千人の信者がいるのであれば、実行するのはあまりに困難であると言います。実は、これは困難ではありません。ロサンゼルスのような大都市には、アメリカ銀行(Bank of America)と呼ばれる一つの銀行があります。しかしながら、この一つの銀行は百もの支店を持っているでしょう。同様に、一つの都市に多くの集会があったとしても、すべての集会は一つの召会に属し、それはやはりロサンゼルスに在る召会なのです。最近、わたしたちの間の何人かの兄弟たちが台北に行って、そこの状況を見ました。台北では主日に、パンさきのために四十もの集会があり、すべての集会が同じ時間に同じ都市で持たれています。しかしながら、これらすべての家庭集会は、一つの台北に在る召会に属しています。もしある人が台北に行くなら、彼は第一家庭集会に出るかもしれませんし、あるいは第四十家庭集会に出るかもしれませんが、彼はやはり同じ召会に参加しているのです。そこには分裂はなく、一があります。

 この一によって、衝撃力があります。もし米国の四十の州が分裂するなら、この国の衝撃力、力、勢いは失われてしまうでしょう。今日、なぜ米国はそんなにも力があるのでしょうか? それは一のゆえにです。一があれば、衝撃力があります。おお、何と巧妙に、敵は主の子供たちを何度も何度も分裂させることでしょう! 今日の状況は何と弱々しいものでしょう! 衝撃力はなく、学課の学びもありません。もしわたしたちが一を保つのであれば、わたしたちは学課を学び、一人一人の信者がわたしたちの兄弟であることを認識するでしょう。そしてもしわたしたちが十字架の学課と制限の学課を学ぶのであれば、わたしたちは衝撃力を持つでしょう。

 召会の立場は小さな事柄ではありません。それはわたしたちを救い、守り、保護します。またそれは分裂に至る裏口を閉じます。わたしたちがある人に対して幸いであるかどうかにかかわらず、わたしたちは正しい立場に立って彼と集会しなければなりません。他の道はなく、他の選択もありません。ただ一つの選択があるだけであり、それが神の選択です。

ウイットネス・リー著召会の立場と召会の集会/第一章から抜粋