地方召会(教会)とは(概説と聖書からの論拠)

地方召会(教会)についての概説

「地方召会(教会)」は団体を表す固有名詞ではない

 「地方召会(教会)」は一つの独立した団体、宗派を意味する固有名詞ではありません。クリスチャンが保持し、あがめるただ一つの名は主イエス・キリストの御名だけです(ピリピ2:10使徒4:12)。また、この主イエス・キリストの御名でさえ、わたしたちが分派を作るために用いることは聖書では否定的な事柄として扱われています(Iコリント1:12Fノート2)。妻である教会が分離、独立し、固有の名称を主張することは、夫である主イエス・キリストを屈辱することです(エペソ5:23-33)。

「地方召会(教会)」は団体名称でなく「地方召会(教会)の実行」を意味する言葉である

 「地方召会(教会)」と言う用語は固有の団体名称ではありません。それは召会(教会)の地方的性質とキリストのからだの表現を持つ”実行”を示しています。すなわち、キリストのからだである宇宙的な唯一の召会(教会)【the Church】を、一つの地方に住むクリスチャンたちが、召会(教会)【the church】として具体的な信仰生活を伴ってキリストのからだを表現する実行が「地方召会(教会)の実行」です。

 「地方召会(教会)」という語を大文字【the Church】で標記することは重大な誤りです。なぜなら、「the Church」を用いることで、「地方召会(教会)」が固有の名称であるかのように見え、また、一つの独立し、完結した召会(教会)であるような印象を与えるからです。月はどの地方で見られようとも一つの月であるように、召会(教会)もどの地方で表現され、建造されようともただ一つの召会(教会)「the Church」です。「地方召会(教会)」は多くの地方において、一つの召会(教会)「the Church」を生活し、表現するための実行上の手段です。

聖書からの論拠(1)「一つの都市には一つの召会(教会)しかあり得ない」

使徒14:23 そして、彼は召会ごとに彼らのために長老を任命し、断食して祈り、彼らが信じていた主に彼らをゆだねた。
テトス1:5 わたしがあなたをクレテに残してきたのは、あなたが残っている事柄を整理し、またあなたに指示したとおり、1都市ごと に長老たちを任命するためです.

テトス1:5ノート1 この言葉は、使徒行伝第14章23節にある「召会ごとに」という言葉と比較すると、都市が地方召会の管轄区域であるだけでなく、一つの都市には一つの召会しかあり得ないことをも示しています。地方召会の長老職の範囲は、その召会が存在する都市全体であるべきです。一つの都市における唯一の長老団は、キリストのからだのユニークな一が損なわれることのないよう保護します。一つの都市には、一つの長老団を持つ一つの召会だけがあるべきです。このような実行は、新約聖書の明白な実例によって説明されており、疑いの余地はありません(使徒8:113:1ローマ16:1Iコリント1:2啓示録1:11)。これは、地方召会で正しい秩序を維持するために絶対に必要な条件です。ですから秩序を正すために、使徒がテトスに行なうよう命じた最初の事は、都市ごとに長老たちを任命することでした。

使徒8:1 さて、サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムに在る1召会に対して大迫害が起こった.そして、使徒たちのほかはみな、ユダヤとサマリアの地方に散らされた。

使徒8:1ノート1 これは、一つの都市を管轄とする一つの地方に設立された最初の召会であり(参照、使徒5:11のノート1)、エルサレム市にありました。それはその地方にある地方召会であり、マタイによる福音書第18章17節で主が示されたものです。それは、マタイによる福音書第16章18節で主が啓示された宇宙召会ではなく、キリストのからだである(エペソ1:22-23)宇宙召会の一部分にすぎません。この事に関する記録(地方における召会の設立)は、新約聖書を通して一貫しています(使徒13:114:23ローマ16:1Ⅰコリント1:2Ⅱコリント8:1ガラテヤ1:2啓1:411)。

啓示録1:11 それはこう言った、「あなたが見ていることを巻物に書いて、七つの召会に、すなわち、エペソに、スミルナに、ペルガモに、テアテラに、サルデスに、ヒラデルヒヤに、ラオデキヤに1送りなさい」。

啓示録1:11ノート1 この書を七つの召会に送ることは、それを七つの都市に送ることと等しいのです。これは明らかに、初期の召会生活の実行が、一つの都市に一つの召会、一つの都市にただ一つの召会があるという実行であったことを示します。いかなる都市にも一つ以上の召会はありませんでした。これが地方召会であって、通りや地区ではなく、地方を範囲としています。地方召会の行政区域は、その召会の所在する都市全体に及ぶべきであり、その都市の境界より大きくも小さくもあるべきではありません。その境界内のすべての信者は、その都市内で唯一無二の地方召会を構成すべきです。

抜粋:ウィットネス・リー著 「新約聖書回復訳フットノート」、JGW日本福音書房

聖書における教会はすべて地方的である

 聖書における教会は地方的です。新約全体に一つの例外も見いだすことができません。教会はすべて地方的です。エルサレムに在る教会、アンテオケに在る教会、コリントに在る教会などです。聖書にあるすべての例は地方的です。例えば、啓示録のエペソに在る教会、スミルナに在る教会、ペルガモに在る教会、テアテラに在る教会、サルデスに在る教会、ヒラデルヒヤに在る教会、ラオデキヤに在る教会はすべて地方的です。神はそれぞれの地方に一つの教会を定められました。地方と教会とは互いに等しいのです。地上の国は諸都市に分かれており、今日、地上で神の教会も諸都市に分かれています。この世には上海という地方があり、それゆえ神の御前には上海に在る教会があります。この世には南京という地方があり、それゆえ神の御前には南京に在る教会があるのです。この世には西安、蘭州という地方があります。それゆえ、神の御前には西安に在る教会、蘭州に在る教会があります。一つの地方になる大きさの場所がありさえすれば、その地方には一つの教会があるべきです。わたしたちのいる場所が地方ほどの大きさを持っていなければ、わたしたちは教会ではあり得ません。蘭州は神の目に十分大きく、地方となります。ですから、蘭州に在る教会があり得るのです。神の御前にこの問題はとてもはっきりしています。

ウオッチマン・ニー著 「ウオッチマン・ニー全集第56巻「開かれた門」誌 第24号」pp152-153、JGW日本福音書房

聖書からの論拠(2)「召会には二つの面、宇宙的な面と地方的な面がある」

Iコリント1:2 コリントに2在る神の召会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別された者たち、召された聖徒たち、7それと共に、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての者へ.彼は彼らのもの、またわたしたちのものです.

Iコリント1:2ノート2 召会は、宇宙的な神で構成されています。しかし地上においては、多くの地方に存在します。コリントはその一つでした。召会は性質において、神の中にあるがゆえに、宇宙的です。しかし実行では、召会は一定の場所にあるがゆえに、地方的です。ですから、召会には二つの面、宇宙的な面と地方的な面があります。宇宙的な面がなければ、召会には内容がありません。地方的な面がなければ、召会は表現と実行を持つことは不可能です。ですから、新約は、召会の地方的な面をも強調しているのです(使徒8:113:1啓1:11など)。

Iコリント1:2ノート7 「それと共に」であって、「そして」ではありません。これは、次のことを示しています。(1)一つの地方召会は、コリントに在る召会のように、その地方にいる信者だけで構成されるのであって、あらゆる場所にいるすべての信者で構成されるのではありません。(2)この書簡は、コリントに在る一つの召会の信者のためだけでなく、あらゆる場所にいるすべての信者のためでもあります。この書簡は、どんな場所やどんな時であれ、すべての信者のためです。

抜粋:ウィットネス・リー著 「新約聖書回復訳フットノート」、JGW日本福音書房